ヴィイプリ城は1293年第三回スウェーデン十字軍遠征の間、ティルギルス・クヌッセン(トルケル・クヌッセン)の命令で、繁栄している交易市場を東方(ロシア)の略奪から防衛するために築城された。建設地は無作為に選定されたのではなく、荒廃した旧カレリア要塞の存在が、商業活動と軍事行動により、スウェーデンですでによく知られていた。スウェーデン占領直後、新しい石造りの城の建築が始められた。1294年、ノヴゴロドから第一次攻撃を受けた。
1323年パハキナサアリ(ネーテボリ)条約が締結され、和平とヴィイプリ発展の要件が整った。1300年代、城の南東の岬に居住地が移動したことが知られている。まもなく岬には居住地が密集し、人々はそこを街(シヴィタス)と呼ぶようになった。ヴィイプリは法的に街としての特権がなかったものの、ヴィイプリを街と言及した最初の出典は1350年バチカン古文書である。
14世紀初頭、ヴィイプリは交易権を認可され、岬に移った居住地は、1403年、ポメラニア(ドイツとポーランド沿海部を東西に延びる地域)のエーリック十三世により街としての特権を処遇された。
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ヴィイプリ憲章1403年8月19日付け原典が、エーリック十三世から授与された。
Wy eric mz gudz nadh Swerikes danmarks norghes wendes oc godes konung hertugh j pomeren kunokt györöm thz mz thætte wart opne breff allom mannom swa the nu aere som the hær aepter kome scule at wy hafvom vnt oc gifuet ware borghere som bygge oc bo j war kijöpstadh wyborgh stadz raet aepter thy som stadz boghene j Upsalom wtwyser, Thv forbyuthom wy allom warom foghedom oc aembetzmanom oc allom androm aeho the haelzt aeren, at hindre thöm j naghre made haer amot Swa frampt the wyliu ware hylle hafue oc war hefnd fly Jn Euidenciam premissorum seeretum nostrum presentibus duximus appendendum Datum in castro nostro Wyborgh Anno dni m cd tertio dominica jnfra octauam assupcionis virginis gloriose.
1403年ヴィイプリ創設憲章邦訳は次のとおり。
「我エーリック、神の恩恵によりスウェーデン王、デンマーク王、ノルウェイ王ヴェンデイ及びゴート王、ア・ポンメル連合王は、ウプサラ憲章に述べられた街の諸特権を、街の住人たち、ヴィイプリ交易地に居住する街の人々に許諾することを、現在当地にいるすべての人々に、さらには私たちを継承する人々に公式文書で告知する。したがって執行吏、軍人、他のすべての人々は、我らの恩恵を享受することを望み、報復を避けたいと望む者に対し、何人であれ、それを妨げてはならない。上述のとおり、我はこの憲章に証印し封緘することがふさわしいと考える。神聖1403年、聖処女マリア天昇につづく日曜にヴィイプリ城にて祭祀を行う」
数々の教会が、中世におけるヴィイプリの最初で支配的な建造物だった。石造大聖堂は1418年に建造されたのが最初だが、1477年に街を襲った大火災で倒壊した。石造のブラックフライヤー大寺院が1481年、別の場所に建造され、グレイフライヤー修道寺院は1455年頃建てられた。1520年代初め、ルーテル派復活教会は修道院を廃止したが、教会の重要性が減少することはなかった。
1470年代、エーリク・アクセルッソン・トットの命令で、ヴィイプリ市街を囲む堡塁として海岸線に沿って石の土手が建造された。堡塁の数か所に城砦つまり円塔が設けられ、なかでも聖アンドリュウ要塞の円塔が最も有名である。1495年11月30日、ヴィイプリが爆撃された。城の司令長官は当時クヌット・ポッセだった。1400年代末から1500年代初めにかけ、ヴィイプリに多数の石造建物が建設され、1550年代、街は建造物で過密になった。
街は、計画道路が設計されていなかったが、利便性の高い道路(狭く疎らながら)が、格子状に施設された。大半の道路が舗装され、後にヴィイプリに粗末ながら下水道網が掘り巡らされた。北の海岸道は「下通り」もしくは「ドイツ人通り」と呼ばれ、ドイツ人や他の富裕市民の邸宅がそこに建てられた。役人たちは、城の向かいに住むのを好んだ。街で最も海抜が高くしかも中心にあたる道路が「国王通り」ないし「上通り」と呼称され、市庁舎が隣接していた。街を縦断する交叉路は「十字通り」と呼ばれ、市庁舎わきから港湾まで延びている。港湾に最も近い通りが「南通り」である。街の南部に倉庫群、工芸職人や鍛冶屋の作業場等、港湾関連施設があった。埠頭は、街を取り巻く堡塁の外にあり100㍍から150㍍の独立施設になっていた。
居住地は、堡塁の外にも広がり、安全性の理由から主に西方へ拡張していった。ヴィイプリの交易は、中央ヨーロッパと良好な貿易関係にあるドイツ、スウェーデン、オランダが支配した。最も重要な輸入品は、織布、塩、香料、その他、北の高緯度地方で入手できない商品だった。輸入品は主に毛皮、タール、バター製品、アザラシ油や干し魚だった。市内に産業工場はなかったが、近郊に製粉所、製材所、煉瓦工場が、急流や湖沼に隣接して建てられていた。盛んな商業活動のために同業者組合会館やワイン貯蔵庫が街の数か所にあり、ヴィイプリを訪れる商人たちがそこで喉の渇きをいやした。酒場、ビールハウス、そして街の門は、通常午後9時に閉鎖され、以降は大騒ぎしている酔っ払いを覚ますため、暗い路地を夜警が巡回するだけだった。多々教育がなされたが、こうしたライフスタイル(生活様式)は、数世紀の間、今日もほとんど変わっていない。
戦争技術の発達により、とくに火薬と大砲が普及すると、1547年、スウェーデン国王グスタフⅠ世の委任により、新しい要塞の建設が始まった。カルヤピハ塔「放牛場の塔」という名の円塔が、ドイツ人通りの南東外れに建設された。塔は、1550年に竣工した。堡塁の外にある独立した建物だった。塔の完成直後、新しい建築用地が街に極めて必要なこと、そしてかつて防衛要件を充たしていた古い石造りの堡塁が、すでに現状に合わないことが明らかになった。
1562年、国王エーリク十四世は、建築家アンドレス・モラレをヴィイプリに派遣した。彼の任務は、街を守る新しい要塞を設計し、堡塁内の建築用地に新しい市街計画を完成させることだった。新要塞は、円塔に繋いで建てられ、要塞の各角地に城砦が建設された。サルヴィリンノイトゥス「牛角要塞(ホーンホートレス)」の正式名称は、地名由来のアイラパア= パンツァルラハティ要塞である。新要塞と新しい建築用地の区画整備が、1580年代末に完成し、街の新区画は一般にヴァッリ(堤防)と呼ばれた。そこに182の新建築用地が造成された。こうしてヴィイプリに、フィンランド初の試みとして、新市街地計画にもとづく新居住区ができあがった。1620年代、旧市街地の大火災により、市街地計画及び諸設備が見直されることになった。区画整備されていない旧市街地の壊れた煙突、庭の建物群、荒れ放題の裏庭や狭い路地等により、市街地全域に火災が広がった。建物過密都市で、市民たちが火災前の地所に家を再建し始め、このとき治安判事がこれに介入した。
1638年、検事総長ペー・ブラヘ男爵が街に着任した。彼は、ヴィイプリ旧市街区に調整指針つまり直線道と方形の建築用地の開発計画を制定することを決めた。条里計画を製図し、各街路に正式名称を付ける必要があった。ペー・ブラヘの命令で、ストックホルム初の都市エンジニア、アンドレス・トルテンッソンがヴィイプリに派遣された。彼の任務は、旧市街のために新市街地計画を作成することだった。条里計画では現存の建物に配慮しなかった。二つの教会と教皇庁だけが現在地に留まることが許された。それらの場所がそのまま新市街地計画に記録された。このことから中世における教会の支配力が分る。新市街地計画は1640年代に実効し、各段階で実行され、完成した街の外観と眺望が1860年まで保存されていた。
1710年、ピョートル大帝の軍勢がヴィイプリを征服し、従来の封地のままロシア帝国に付属した。ロシアは、フィンランド全土を征服した1809年まで統治した。1812年、フィンランド自治公国が創設され、ヴィイプリ封地いわゆる「旧フィンランド」がそこに併合された。
1840年代と1850年代、ヴィイプリの創始者たちは、ピョートル大帝が、崩れかけた1500年代の堡塁を彼らに取壊させることに合意したが、それはヴィイプリに過去数世紀のような軍事要塞としての重要性がもはやなかったからにすぎない。堡塁に囲まれた街は、幅450㍍、奥行700㍍ほどだった。建築物が過密になり、街は新しい建築用地を急速に必要としていた。
サイマア運河建設と将来的にヘルシンキ=ヴィイプリ=サンクトペテルブルグ間を結ぶ鉄道ルートの構想により、堡塁取壊しの要求が高まった。
1854年、クリミア戦争勃発で事情が変わった。1856年戦争終結後、軍事政権は、堡塁と城砦が時代遅れで、彼らの目的に合わないと認識した。堡塁は状態が悪く、部分的に手の施しようもなく崩れていた。市民は、堡塁の平坦地を畑地に利用し、堡塁の表やくぼ地は羊やヤギが食むすばらしい草地だった。ヴィイプリ古伝説、ヤギと土手は、当時に由来するのではないだろうか。軍事政権内で、パッテリンマキ(「バッテリーヒル」)に新しい要塞と城砦を建設することが決定され、1850年代から1870年代にかけて完成された。
1856年サイマア運河竣工と1860年代に整備された鉄道網が、ヴィイプリの運命に決定的衝撃になった。1859年国王裁決により、1500年代の旧堡塁が、街の資産になった。聖アンナの王冠、別名シイカニエミ堡塁(1730~1750年代に建設)は、従来どおり軍事政権所轄とされ、取壊しは許可されなかった。
技師バーント・オットー・ニマルムが作成した新市街地計画が1861年認可され、その後、街の堡塁解体が急きょ開始された。街の建築用地は六倍に増えた。
新しい大通り、トルッケリン通りとアレクサンダー通りが1880年代に完成し、堡塁解体も1880年代末に終了した。パンツァルラハティ要塞とそれを取り巻く堡塁が、過ぎし数世紀を思い出させる。
港湾拡張整備のため、パンツァルラハティ要塞南西の堡塁の一部が、1910年代初めに解体された。
1890年代初めから1914年第一次大戦勃発まで、ヴィイプリは盛んな建設ラッシュだった。戦時中は人材と物資の不足で、建築作業が落ち込んだ。
独立時代初期に、ヴィイプリに都市計画建築家の役職が用意され、1918年、建築家オットー・イイヴァリ・ミュールマン(1890年6月4日イルマヨキ生―1994年8月19日ヘルシンキ逝去)がその役職に選出された。ヴィイプリに併合された広大な土地の設計を任された。この土地に、1924年と1928年、パッテリンマキの東部と南部がそれぞれ併合され、北部はカルヤラのイマトラが1924年に併合された。西部のソルヴァリ、サウナラハティ、ヒエッカ、ピキルウック、ティエンハアラが街に併合されたのは、1933年になってからだった。またウウスラという島が、新しい大港建設中の1932年にヴィイプリに併合された。併合されたのはすべて市街地計画も都市エンジニアリングもなかった旧居住区だった。
都市計画建築家の作業分野は広く、やりがいのある仕事だった。彼は迅速に新地域の設計原案を仕上げ、ハヴィ地区都市計画などがすぐ決定された。実際、1935年までに新地域がすべて設計された。オットー I. ミュールマンが主に関心をもったのは、交通機関の整備だった。自動車交通量の増加から生じる諸問題と主要交通道路整備の必要性をすでに認識していたのである。
新居住区における新築一戸建て計画が作成された結果、1920年代半ば以降、新築ラッシュが始まった。カルヤラ新聞社、フィンランド貯蓄ヴィイプリ銀行、農業公社等のビルが街の中心部に建設され、複数の公民館と多数の集合住宅が、クッレルヴォ通り、スオニオ通り、ペッレルヴォ通り等に建てられた。1923年、円塔にコーヒー店が新装開店し、ヴィイプリ工業技術会議所が大小の会議室に改装されたのが、重要文化建造物が実用化される好例になった。
ヴィイプリでは、建築用地造成、あるいは上下水道や電線を施設する際、既存の古いビルや地下室、墓地に突きあたることが頻繁にあった。また大雨の後、未知の遺跡がときに露出することもあった。掘削中、古代住居跡やその一部が見つかることもあった。1925年、ハックマン社が、カルヤ門通りと北部堡塁間の区画で砂糖備蓄倉庫建設に着手したときもそうだった。複数の部屋と煉瓦造りのアーチ型地下室に突きあたり、建築予定地南側角地には、明らかにグレイフライヤー修道院所有とみられる墓地旧跡があった。遺跡発見後、砂糖倉庫を設計した建築家ウノ・ウッルバーグが、考古学遺跡調査委員会に連絡し、委員会は国家考古学者ハイ・アップルグレン=キヴィヴァロを発掘調査に派遣した。トットとクルック両家の家紋入り銀スプーンが切通しから発見された。国家考古学者は、ヴィイプリ市民の狼狽を横目に、スプーンを持ち帰り、国立博物館に収蔵した。建築家ウッルバーグは、旧建造物を測量し、その設計図を作成していった。
こうした古い遺跡の出現により、ヴィイプリ建築家たちは、遺跡の写真撮影と復元を組織的に管理しないといけないと考えるようになった。建築家バーンハードO.G. フレイザーとオットーI. ミュールマンが、こうした考えをさらに推進した。二人は、遺跡監督官の創設を提案した。結果、考古学遺跡調査委員会が1926年ヴィイプリ市議会に書簡を送ることになり、遺跡保護と科学的利用を明確にするため、市は遺跡監督官を指名するべきだと提案した。事案は1927年3月15日、市議会で検討され、合意された。監督官雇用のため、議会は同年後半期6000フィンランド・マルッカの予算措置をとり、継続して二年間の追加予算として12000フィンランド・マルッカを計上した。この後、委員会歴史部会は、1927年4月26日、監督官の地位に関する規程を制定させ、6月1日、委員会は、オットー I. ミュールマンを遺跡監督官の地位に指名し、翌月から作業が開始されることになった。当初の予算と後に同額の予算を受け、主に中世以降の自然石建造物の写真撮影、測量、設計図の作成が始まった。設計図は二部作成され、一部がヘルシンキ考古学遺跡調査委員会に送られ、もう一部がヴィイプリ博物館に収蔵された。後者の設計図は1940年3月13日、冬戦争最終日、ヴィイプリ歴史博物館の火災で焼失した。遺跡建造物、土から露出した石造地下室、地下作業用出入り口、その他の設計図は、総数30ほどになる。ヴィイプリ城がある島の南側でおもしろい発見があり、完全に地中に埋没していたかつてのスウンタリトルニ(物見塔)の遺跡の門と通路が露出して、部分的に保存されていた。最下階は、現在、城がある島の地下7㍍にあった。この深さから、城と街の間の海峡へ、狭い地下道がとおっていた。街の工務店の親方の話しでは、1920年代に海峡を浚渫したとき、煉瓦の壁の一部が発見された。(これはトンネルの反対端だったかもしれないが、いずれにしても城と街の間に海底をとおる地下道があったことが推定される。1980年代、ロシア人たちが、旧ヴェックルゥス邸の地下で同じようなトンネルを発見した)。
ヴィイプリ市最大の投資が、都市工学による新郊外建築と港湾地区拡張に向けられた。1834年に建てられた市立劇場の近代化にも莫大な設備投資が必要だった。
「大通り」「国王通り」「地峡道」「地峡通り」を通って東部の郊外まで行く市電の路線建設が大事業だった。道幅の広い新「大通り」の建設そのものがプロジェクトだった。ウウラスと、そこに1926年に竣工した港湾鉄道が、大規模な港湾建設の目標だった。ヴィイプリ港に入る新鉄道連絡工事も南東から始まり、1925年に竣工した。1930年代初め、大恐慌の時代だったが、街は新しい市立病院、住居、学校、専門学校、給水塔、バスターミナル(フィンランド初)、芸術学校と美術館、地方公文書館を次々に建設していった。レストラン・エスピラが修復され、市庁舎が全体的に改修された。大恐慌時代、軍事病院、教会補佐僧(ディアコニ)施設、ヴィイプリ地方行政庁も建設された。大恐慌が終わると、建築のピッチが上がった。港湾が盛んに拡張され、街は公立図書館、女性専用病院、2000人を収容する座席つき夏劇場、専門学校、工業林業訓練所、パプラ方面新高速橋、さらに中央運動場(3000人を収容する座席つき、運動場の反対側に野外席を設置。座席総数が約5500、それを囲むように10000人規模の立見席があった)。めざましい建築期間中、小公園も多数整備された。
貿易産業の枠組みで、サヴォ=カルヤラ卸売会社、SOK(フィンランド協同購入中央商店)、製粉所、製パン工場、OTK(卸売会社)とハンッキヤ(食糧仕入会社)の事務所と倉庫が建設された。
郊外に多数の住居が建てられ、それにともない公衆サウナ、各種の協同購入小売店、東トウコラ定住促進センター等、新たなサービス業やビジネスが出現した。1935年から1938年にかけ、十棟以上の集合住宅が中心街に建設され、七、八棟が改築されてセントラルヒーティングが設置された。将来的展望により、夢と期待が大きくふくらんだ。
1939年は大いなる期待で迎えられた。輸出収入の有意な増加は、市民の購買力向上にも、街の経済にも反映しなかった。1936年、ラグナー・イピアが、新都市計画建築家に指名され、新学校施設の設計にのりだし、未来のスポーツ・パレスやコンサートホールのアウトラインを設計した。これらの施設は、冬戦争の到来で実用化されなかった。
オットー I. ミュールマンがヘルシンキ工科大学都市計画教授に就任後、 若い新鋭オラヴィ・ライサアリが、都市計画建築家に指名された。ライサアリは、1938年すでに開始されていた新規鉄道事業の継続を含む交通機関整備に着手し、西に延びる新大通りも設計した。自動車の急激な増加により、ライサアリは交通機関の隘路に目を向けないといけなくなった。ヴィイプリ周辺の各道路は、1930年代半ば以降、つねにどこかで改修工事がされていた。
自動車交通の妨げになったため、トルッケリ通りとカルヤラ通りの市電導線が1938年と1939年にそれぞれ撤去された。冬戦争前には、ほとんどの通りに街路灯が設置された。
1939年、建築工事が加速された。新築住居が中心街に設計され、ビジネス・パレスの建物が話題になった。1939年秋、協同購入会社トルッケリが、トルッケリ通りに新ビジネス・ビル建築を開始した。ヴィイプリ協同購入会社が、大型ショッピングセンター建設のため、ヴァアサ通りとトルッケリ通りの角地に3区画の建築用地を購入した。設計案が作成されたが、計画は未定になった。保険会社カルヤラとイルマリネンが、カンナス通りに十階建ての本社ビルの建設を開始し、スタルクヨハン社の高さ130㍍の中央倉庫の建設がハヴィン通りで急ピッチで進められた。カルヤラ電気会社もスオニオ通りに新工場建設を開始したが、1939年10月、わずか二階部分が竣工した時点で工事が終了した。1940年オリンピック大会にヴィイプリでサッカーの試合が行われることになり、ホテル・アンドレアがビルを増築した。
1939年、生徒数1000人のヤアッコ・ユテイニ小学校建設が始まった。9月に学校は棟上げまで建ち上ったが、10月に建設工事が中断された。
数戸の住居用ビルが、特にパンツァルラハティ市街地に建設された。建築工事が同時に進行したのは、中心街のせいぜい十か所の建築用地だった。さらにすでに建築許可済の二か所が建設開始を待っていた。
9月、第二次世界大戦勃発により、海上交通が停滞し、バルト海が軍事作戦の舞台に変容した。対外輸出が妨げられ、例えば液体燃料の獲得が極めてむずかしくなった。10月に始まった動員で、建設と新規契約数が減少した。国防軍によるトラックの軍事徴用も、建築事業遅滞の要因だった。燃料も配給制になった。要因はどこも同じで、社員が徴兵されたヴィイプリのどの建築家事務所も建設会社も事業が抑えられた。10月にモスクワで始まった和平交渉で、大勢のヴィイプリの人々は考えた。いくつかの企業は、中央フィンランドに倉庫を移動し、他の不急な物資も安全なところに移した。大半の住人は、しかしながら戦争にはならないだろうと思っていた。
1939年11月30日、ソ連空軍がフィンランド諸都市を爆撃し、同日、宣戦布告もしないで赤軍が国境を侵犯してきた。戦争が勃発し、ヴィイプリの生活は停滞し、引き続く空襲の危険から、人々が街から避難した。二月半ばには街から市民がいなくなり、あらゆる機能が閉鎖された。激しい戦闘になり、前線がヴィイプリ近くまで接近し、東部郊外パッテリンマキの東側と南側で最終戦がくりひろげられた末、1940年3月13日昼頃、前線が停止した。
1940年3月12日、モスクワで和平条約が締結された。条約によりフィンランドは、ヴィイプリとラトガ湖北部諸地域を含むカルヤラ地峡をソビエト連邦に割譲することになった。フィンランドは国土の10㌫を失い、人口の12㌫が故郷から引揚げることになった。
人口86000人のフィンランド領ヴィイプリはもはや存在しない。
ユハ・ランキネン 2007年1月2日
2008年ノーベル平和賞を授与されたマルッティ・アハティサアリ元大統領は、1937年にヴィイプリで生まれた。